はじめにプロフィールこらむ著書紹介シモのブックリストお問い合わせリンク下橋が走る!先生たちの駆け込み部屋

コラム

お世話になった「コリアボランティア協会」
国立療養所栗生楽泉園  藤田三四郎 様
一度は出かけたかった「近つ飛鳥博物館」へ 〜先人の偉大な知恵と暮らしの営みに脱帽する貴重な体験〜
徳之島は別天地だった
身体の記憶をたどる旅
「教師駆け込み寺・大阪」趣意書より

 お世話になった「コリアボランティア協会」

下橋 邦彦(関西大学人権教育論担当)

 これまでの8年におよぶ協会とのお付き合いのなかで、月一回発行されるニュースが確実に届けられている。月一回とはいえ、毎回12ページのニュースを発行し続けることは大変なことだと思う。手元にある09・10・1発行のニュースは97号とある。ということは、来年2010年1月号で100号を数える。2010年1月は、阪神淡路大震災が起きて15年にあたる。この15年の間、営々とたゆみなくボランティア活動を続けられてきたことになる。何がこの継続の力の源泉だろうか。
 どういうきっかけで「協会」とご縁ができたのか、今になってみると思いだせない。協会が前の事務所にあったのが、家主との関係で立ち退かなくてはいけなくなり、今の場所に移ってくるにあたって、「支援」を呼びかける動きがあると知り、それで協会に初めて顔を出したのではなかったか。その折、新しい(現在の)事務所には、久保麗子さんお一人がおられたように記憶している。来意を告げお話しすると、まるで10年の知己に出会ったような感覚になった。そして、代表代理で震災リーダーの鄭さんにお会いすることができたのだったか。柔和な、笑顔の素敵な鄭さんに惹きつけられ、以後機会を見ては事務所に鄭さんを訪ね、近くの店でしばし歓談する、そんな関係にいつの間にかなっていた。
 そのうち、「人権教育論」のフィールドワークの案内をお願いするようになり、今年度まで毎年1回続いてきた。ひとえに「協会」の皆さんによって案内役を引き受けていただいたおかげだ。毎年6,7人は案内役として出てくださる。それも多士済々の方々だ。民族学校の校長先生だった方、朝鮮の民俗に造詣の深い方、生野の歴史をよく勉強されている方、そして在日コリアン3世の方、生まれも育ちも猪飼野でありながら長く日本と朝鮮の関係、生野区の特性に無知であったと気付かれ、以後懸命に学習され案内役まで引き受けられるようになった方。こうした豪華な顔触れをそろえていただけるのも、鄭さんのお人柄によるところ大なのだろう。
 豪華なメンバーの中でも、ひときわ年若い金隆明さんの印象は強い。かれが学生を前にして語るおもいは、在日3世の方の置かれてきた位置を如実に示しているように思えた。本名と通名を何度か行き来する、その中に在日朝鮮人としての生き難さとそこからくる苦悩がはっきりと映し出されているように見えた。学生といちばん歳の近い金さんの語りは、学生に強い印象を与えただろうか。それとも、これまで在学した小・中・高校で意識的に「在日」の存在と出会う体験をもたない学生たちの場合は、金さんの「生き難さ」とそこからくる「苦悩」を理解し、共感する素地ができていないかも知れない。
 協会の事務所では、毎週金曜日夜に「朝鮮語」の学習会が開かれている。これまで、私は朝鮮語の学習には参加せず、それが終わった後の懇親の場にだけ出かけたことが何度かある。ビールとつまみを適当に仕入れ、遅くから事務所に入っていくと、皆さん歓迎してくださる。なんの隔てもなくあちこちで話が酒と共に盛り上がる。まさに「共生」の場になっている。
 そんなひと時の場に高宮さんもおられた。いつも血色の好い笑顔で、人の輪に入っておられた。その方が7月に亡くなられたと鄭さんからお聞きした。8月14日、高宮さんを偲んで大阪城公園で「追悼の夕べ」をすると、たまたま鄭さんにかけた電話で知らされ、急きょ駆け付けた。高宮さんの奥様も来られていた。いまだ悲しみの中に埋没されているやにお見受けした。私は長兄の死の時のことをお話しした。それでどうなるものでもないが、亡くなられた方をいつまでも記憶に刻み込むことが、死者を自分に活かしていくし、亡くなられた方の真の供養にもなると考えるからだ。
 これまでの8年にわたる「協会」との、なかんずく鄭さんとのお付き合いは、関西大学の「人権教育論」の担当者としてであった。だから、その授業を成り立たせるための行動という側面を免れなかった。が、私も関西大学を来年(2010年)3月に退職する。これからは、まさに一市井の人として、皆さんと交われることができればと願っている。とはいえ、私の後任の人がもしフィールドワークを授業の一環としてお願いすることがあれば、ぜひこれまでに引き続き、「協会」としてお力をいただきたいと思う。
 人との出会いは、偶然のように思えて、それが続くことによって必然となっていく。本当に必要であればその関係は必然であり、そこに豊かな生が生れる。一年にわずか一度か二度であっても、出会い交流することで、自分の中に新たに加えるものができる。慣れではなく、そこに「気づき」を与えてくれる・与えあう関係こそ本物だ。古希を迎え、そういった意味での関係をこれからも続けていきたい。
 「協会」を場に出会った多くの皆さん、本当にありがとうございました。これからもよろしく!


 国立療養所栗生楽泉園  藤田三四郎 様

 ○弥生三月に入りました。まだまだ寒い日が続きますが、お元気でお過ごしでしょうか。八十歳のご高齢になられて、寒さもひとしお身にこたえるのではありませんか。特に群馬の栗生楽泉園は山の中にあり、浅間山の吹き下ろしもきつく、積雪もかなりあるのではと想像しています。これまで何度か訪問させていただいた時にも、園内の雪道を歩いた記憶があります。

 ○先日は、『月光を浴びて』(新葉館出版)をお送りくださいまして、まことにありがとうございます。新しい著書を出されるたびに送っていただきながら、ちゃんとしたお礼状も出せぬままになっています。今回のご著書も、西來みわ様が巻頭言を書いておられ、これまで序文を書かれた本を全部読み返しましたとありました。私も書棚からこれまでに頂いた『藤田三四郎散文集 - マーガレットの思い出』(1993年、青磁社)と『マーガレットの丘 - 藤田三四郎詩文集』(2006年、新葉館)の2冊を取り出し、今回送っていただいた『月光を…』と合わせ、三冊を、あらためて紐解きました。

 ○『月光…』の巻頭近く、山梨で講演された冒頭近く、嶋崎起代子先生の名を見出し、とても懐かしく思い出しました。嶋崎先生は、金夏日さんが祖国に帰り、父上の墓参りをしたいと希望を述べられ、嶋崎先生が同道されて念願を果たされたのでしたね。私は、園に初めて出かけさせていただいた後、たまたま山梨で研究会があり、その折先生の開業されている医院にお邪魔したことがありました。そんなことも思い出されます。

 ○藤田三四郎講演といえば、尼崎市西宮教会でお話しされるということが、新聞に載り、連絡先として好善社理事川崎様とあり、すぐに電話を入れ藤田さんが関西に来られることが分かりました。それで、尼崎のホテルに私も一人で訪ねさせていただきました。6月29日のことであったと、今回の著書で確認いたしました。その折、「ハンセン病市民学会」の方が車で迎えに来られ、私もそれに乗せていただき、大阪市内を雨の降りしきる中走り、「お孫さんの家」に着き、何の知り合いでもない私まで、藤田さんのご縁であがらせてもらい、一緒にお話ししながらたこ焼きその他を御馳走になりました。まるで昨日の出来事のように、鮮明に思い出すことができました。その折、かなり遅れて参加された日本経済新聞記者の女性の方とはその後も連絡を取り合い、私が主宰している「教師駆け込み寺」の活動の記事を書いていただきました。

 ○ところで、藤田さんは、ご自分のことを「戦争とハンセン病の語り部」だとおっしゃっています。戦争とハンセン病は切っても切れない関係にあることをこれまでの学習で少しは理解していましたが、以前の著書でもそのことに何度も触れておられ、今回も『マーガレット…』で「私は軍隊に五年。ハンセン病との闘いを六十年間継続出来たことは感謝です。今後は、戦死した戦友のためにも戦争、ハンセン病の体験を一人でも多くの方に《語り部》として伝えたいと思います」と、書かれています。次の「戦争体験者に耳を傾けて下さい」の冒頭にも次のように書いておられます。
 「私は十四歳で少年航空兵として入学、同期生は三百人でした。三年間の教育を終えて、三分の二が外地に配属され、同期生たちは、ほとんど戦死しました。私は十九歳でハンセン病の宣告を受けて、国立療養所栗生楽泉園に収容されました。今年で六十年となりますが、その間ハンセン病の人権回復のために努力してきました。その結果、予防法は廃止されました」と。
 今の若い人たちはもちろん、戦争体験をしていない世代が大半になった今日、「知らない」では済まされないことを戦争無体験者の人達に伝えていかねばなりませんね。私の生年は1939年で、敗戦の翌年小学校にあがりました。ですから戦争体験と言っても「空襲体験」と「ひもじさ」の体験がほとんどです。しかし、神戸の空襲で父があやうく一命を落としあっけたと聞き、もしそうであったら、私たち子どもの将来は、今とはうんと違ったものになったであろうと思いました。通う前に名倉小学校は空襲で焼夷弾に焼かれ、講堂の屋根は突き破られ、青天井の下学級に分かれてその講堂で授業を受けたことを覚えています。また、階段の手すりも焼けただれ、戦争の傷跡として今も保存されています。学校の空き教室が「資料展示室」にもなっています。

 ○多くの「仮孫」さん(千人を超すとか)に囲まれ、慕われる藤田さんの姿が随所に出てきます。今回の『月光…』にも、法政大学の学生さんの訪問記が載せられていて、若い人たちの優れた感性に触れることができます。そのうちの梶原綾さんの文章が目にとまりました。
-- 私はハンセン病にかかったこと恨んではいないですよ。もし病気にかからなければ、戦争に行かなければならなかったし、こうして皆さんと出会うことはできなかったでしょう。病気にかかったから、沢山の人と出会えたんです。
 藤田さんのこの言葉に衝撃を受けた。さらに、「当時の医者が行ったことは、もちろん医学の倫理に反しています。だけど、それを現代の視点からみてはいけない。当時の状況を踏まえて考えなければならない」と当時の医師を庇う言葉から、藤田さんの懐の深さ、そして測り知れない苦労を乗り越えてきた人だけが持つ「強さ」が感じられた。/藤田さんはただハンセン病の悲惨な歴史を語るのではなく、生きることの大切さ、言葉の大切さ、人と人との結びつきの大切さ等、普段の生活で見失いがちになっている大切なものを私たちに気付かさせてくれた。毎日を健康に生きられ、家族がいつも近くにいることが当たり前で、立ち止まって有難いと感じることはほとんどなかった。藤田さんの言葉は胸に響き、「当たり前だと思っているもの」こそ自分にとって一番大切なものなのではないか、と思えるようになった。(後略)

  ○若い人たち(仮孫さん)の、亡くなられたお連れ合いである藤田ふささんに捧げられた数々の「言葉」も、私を深くとらえました。『マーガレット…』に載っています。(JLM第812号)ふささんとの結婚のいきさつは、今回の『月光…』にも語られています。紹介者に引き合わされたこと、結婚の条件として断種手術を受けさせられたこと、戦後間もないことで食糧に乏しく、友人など25名を招いてジャガイモカレーで挙式されたこと、新薬プロミンによって入園者全員が全治したこと、それを受けて「私は六十年から現在まで自治会活動を継続し、真の人間回復の実現のために努力してきました。その間、妻には迷惑をかけましたが、夫唱婦随でやってきました。しかし、その妻も二〇〇四年六月十九日、七十八歳で「主」のみもとへ旅立ちました。夫婦で五十八年苦楽を共にし、妻の匂いのしみついた舎から…」と語られています。
 言葉でいえば、「妻には迷惑をかけましたが、夫唱婦随で…」となるでしょうが、奥さまのふささんは(一度しかお目にかかったことはありませんが)、藤田さんを支え続けてこられ、きっと大変だっただろうと思うのです。自治会長として長年重責を果たされてこられる間、言うに言われぬことがたくさんおありだったでしょう。昔は「内助の功」ということが言われましたが、園の皆さんをまとめ、他の自治会と協力し、時に激論もたたかわされたでしょうが、そうしたことがおできになったのも、奥様ふささんの陰の力が絶大であったと想像します。一度きりでしたが、お宅に寄せていただき、お酒を頂きましたが、つまみにおいしいスルメを出されたことを記憶しています。その際、にこにこして応対してくださった奥様の姿が忘れられません。

 ○藤田さんは、桜の花、マーガレットの花、彼岸花など、花にことよせてさまざまに出会った人たちを追憶されています。
 「私は桜の季節になると、亡き妻を思い出します。妻は花が大好きでした。二十数年前より目が不自由になりました。雪が解けて春一番に咲くのは水仙です。私はその花を手折って妻の手に。すると花に口付けをして花との出会いに感動。私は四季の花を同様に妻の手に渡しています。今も妻の仕草が鮮明に浮かびます。/桜の花が咲き始めると、孫たちが、私たち夫婦を桜の名所に案内してくれます。満開の桜の花の並木の下で孫たちと歩いていると、妻は『お父さん、本当に桜の花はきれいだなぁ…私たちは最高に幸せだ』と言いました。/『また来年も来よう』と孫が言うと、『そうだね』、とこの言葉が最後になろうとは…。(中略)…(今年も)桜に会いたいと言います。私は返答に困ってしまいました。明日桜の枝を折ってくるからと言うと「早く」と言います。私たちは桜の花と共生しながら五十八年間夫唱婦随で歩いてきました」
 藤田ご夫妻が、互いの存在を想い合い、支え合って五十八年間歩んで来られたことが、伝わってきます。そういえば、2007年さきほど触れた西宮教会で講演された折、久方ぶりにお会いした藤田さんは、一回り小さくなられたという印象を受けました。

  ○花といえば、マーガレットの思い出と副題された『藤田三四郎散文集』に、副題と同様「マーガレットの思い出」と題されたエッセイが入っています。数あるエッセイの中で、その描写の素晴らしさとともに私の心に深く刻まれた文章です。
-- 桜前線が日本列島を北上し本州から北海道へ渡る頃、日本の中央に位置しながら春の遅い当園にも漸く桜の季節が訪れる。そしてその桜が散り終える頃、療舎の庭先の草花が一斉に開き始める。厳しい冬の寒さに耐えて花開く今の喜びはひとしおであろう。/療友たちはそれぞれに春のプランを立て花作りの話もはずむ。大自然の営みも活発となり蓄積していた力が泉のように湧きだす。周囲の山々が新緑を増し、カッコーが啼きはじめると、療友たちはミニ菜園に収穫の夢を託して種蒔きに励む。春は花々の開花を促しながら時が刻まれてゆく。桜が散り山つつじが咲き、私たちの目を楽しませてくれる頃になると、園内にはマーガレットの白い清楚な花が咲き始める。私はこの花には特に印象深いものがある。

-- 戦後まもなく、暗い気持ちで入園し療養生活に入った頃、医局への行き帰りに出会った白い小さな花。食糧の方が先と、増産に励んだその時期にあっても、「心もすさんでいた時代にこの花と出会い、耐えること生きることを教えられた。この可憐な花にも厳しい冬の時期があり、風雪に耐えた時があって、今花を咲かせることが出来るのだと。柔らかな花びらに手を触れ、顔を寄せて見ているうちに、荒んだ心も次第に和らぎ、自分を見つめることが出来るようになっていった」「三○年代になると私たちの療養生活にも潤いが出来てき、園内の空地や道路の左右には桜が咲き花見を楽しむ人も多くなった。やがて葉桜となり、つつじも終わる頃には山の緑も濃くなり、園内ではマーガレットが白一色に咲き競う、この時期が私たちにとって一年で一番生活しやすい季節なのである。(中略)細い根でありながらきびしい冬に耐え、生き抜いて春には花を咲かせ、私たちに季節の挨拶をしてくれるこの花……、(中略)一それぞれに、花に交わりながら一つのドラマを作って行くのだと思う。私はこの小さな白い花に力づけられ励まされて来たように思うのである」と。

 ○花とともにある人生を見事に活写したエッセイ。金関寿夫さんの訳になるネイティヴアメリカンの哲学的な詩を集めた『今日は死ぬのにもってこいの日』(ナンシー・ウッド著、めるくまーる刊)の数々の古老たちの語りにも似た響きが、藤田三四郎さんのこのエッセイにはあるように思います。
--(前略)冬はなぜ必要なの?/するとわたしは答えるだろう、/新しい葉を生み出すためさと。(中略)あまえがまたきく、夏が終わらなきゃならないわけは?と/わたしは答える、/葉っぱどもがみな死んでいけるようにさ。

-- (前略)……川の流れは、岩の上でゆるやかな踊りを踊り、「別れの歌」を歌っていました。鳥たちもまた、季節の終わりが近づいたことを、わたしに告げていました。/けれどどちらを向いても、悲しみというものはありません。というのは、すべてはそのとき、そうあるべき姿、そしてそうあるべきだった姿、また永久にそうあるべきだろう姿を、とっていたからです。ねえ、そうでしょう、自然は何ものとも戦おうとはしません。死がやって来ると、喜びがあるのです。年老いた者の死とともに、生の新しい円環が始まります。だからすべてのレベルでの祝祭があるわけです。(以下略)

 別のエッセイで藤田さんは「出会う人総て私の恩師です」と語られている。花や自然と共にある人生、「仮孫」たち千人以上に囲まれての人生、50年にわたるハンセン病への偏見と差別と闘い、現実的な今後の療養所のあり方をもとめてなお行動する人生、その長い人生の歩みから、私はまだほんのわずかしか学んでいないことに気付かされます。いずれ遠い奄美の・徳之島の地に移り住む私として、せめて大阪にいる間に、もう少し交流をさせていただきたいと念じ、長い手紙を閉じます。ありがとうございました。

2009年3月6日(金)           下 橋 邦 彦
                


 一度は出かけたかった「近つ飛鳥博物館」へ
         〜先人の偉大な知恵と暮らしの営みに脱帽する貴重な体験〜

きのう(2008年8月14日)、朝の毎日新聞を開いた。井上章一さんの「建築夢伝説」という1か月に1回の割で連載されているエッセイ風の文章を、目にする限りこれまで読んできて、ちょっぴり井上ファンになっていた。きのうのエッセイでは「近つ飛鳥博物館」が取り上げられていた。
 この博物館の設計が安藤忠雄氏であるということで、まず心が動いた。独学で建築をまなび、「安藤建築」として名を世界に知られる、まさにその人がどんな博物館を設計されたかに興味があった。
 井上は書いている。堺の大仙公園にでんと座っている大仙陵古墳(仁徳天皇陵)、羽曳野の誉田陵古墳(応神天皇陵)は、かつては、ともに表面が葺石でおおわれていたという。今は小高い丘のようにも映るが、安藤はこの博物館を古墳建設当初の「人間の意思がこしらえた幾何学的な輪郭」を取り入れ、かつての「古墳像をしのべる施設」に設計したのだという。館内の見学を終えて外に出て再度眺めると、なるほど大古墳を模した設計になっていることが確認できた。地上2階、地下1階は、らせん階段でつながっており、展示物を観ているうちに自然に地下に下りて行っている格好になっていたのだ。説明板を極力少なくし、ビデオ映像やアナウンス、ランプ点灯による表示などの方法で理解を助ける風になっていた。

南河内というのは日ごろからなかなか縁のない場所ということで、これまでに最寄り駅である「喜志」駅には降り立ったことはない、そう思っていた。近鉄南大阪線に乗り、河内松原、藤井寺を経て喜志の駅に着いた。駅員にたしかめバスのロータリーに出た処に、「大阪芸大」のスクールバスが着いた。それで、3年前だったか「日本笑い学会」の大会が芸大で行われた時ここへやってきたことを思い出した。やがて金剛バスの「阪南ネオポリス」行きがきた。窓からは稲の色づき始めた田んぼがいくつか見てとれた。多くがまだ収穫までに時間がかかりそうな稲穂であった。太子町から石川を渡り、河南町に入る。右手は「千早赤阪」という表示が見えた。この地名を見るだけで、一気に歴史を遡れるような気がした。一須賀という地名のところを通過するとき、だんじり祭りの提灯と旗が並べられていた。「そういえば、今日は岸和田のダンジリの日だ」と、思い出した。この一須賀でもだんじりが引かれたのだろうか。あのケガ人や時に死者を出すだんじりはその土地に根を張り、脈々と今日に伝えられ、若者だけでなく村挙げての一大行事なっているのだろう。私の担当する学生の中には、毎年「だんじりをかつぎます」という人がいた。なかには女子学生もいた。一須賀を過ぎ、芸大の建物の先端を見ながら、まもなくバスは終点に着いた。目の前が「近つ飛鳥風土記の丘」の入り口だった。

目の前にコンクリート打ちの建物があった。まさかこの小さな建物が博物館ではないだろう。入場のときもらった案内書には、この風土記の丘のことを、「一須賀古墳群を保存し、親しむ場として、大阪府が設置した史跡公園です。29万m2の公園内には、102基の古墳があり、そのうち40基が見学でき」るという。入口近くにも「横穴式古墳」が見られた。この史跡を公園を踏破するには、それなりの時間と覚悟がないと無理だと思えた。そこから博物館までの道は二手に分かれ、ゆるやかな道は300m、急坂の道は150mと表示されていた。もちろん急坂の方を歩いた。道々「マムシ注意」「もし出たらあわてず、静かに退却すること」と注意書きがしてある。奄美や沖縄に出かけることなんどもあるが、これまでハブに出くわしたことがない。人さまが脅さなければ、食べ物さえ森にあれば、動物たちは無暗と人を襲わないのだ。クマとて同じことだ。すべての原因は人間が作り出している。そんなことを思いながら歩いている目の前は「杉林」ばかり。これには参った。日本の植林計画は、スギやヒノキという成長が早く「材木」にできるものばかりを植林してきた。災難は動物たちだ。

やがて眼の前に安藤建築である「博物館」が現れた。ちっちゃな道が階段状になっている。それを下りると、館の入り口だった。65歳以上は300円とある(一般入場者は400円)。荷物をあずけ、身軽になって館内に。4cから7cあたりまでの各地の古墳の出土品が多く展示されていた。古墳時代初期の紫金山古墳の豊かな出土品に驚かされた。なんと茨木市に出土したとある。とすれば、卒業生のM君はこの発掘調査にかかわったのではないか。出土した各世紀の瓦文様が一覧されていた。素人の私には、どれが古くて新しいか見分けることなどできない。が、壮観であった。古代文字の一覧も興味引かれた。木に紙に、そこにはたしかに今も使っている文字が認められている。墨字がはっきり読み取れるものが多かった。「いろは」を発明した祖先の英知にあらためて思いをはせた。周辺に並べられて展示されている埴輪も、これまでの人体模型のようなものだけでなく、円筒のような1mを超える大きなものまであった。三角縁神獣鏡が古代朝鮮や中国との交易のなかで多くヤマトにもたらされ、またヤマト独自のものも加わってきたという。そういえば、若くして亡くなった友人のF君は、この「三角縁神獣鏡」にかかわる論考を本にしたのだった。

展示品で私を引き付けた最大のものは、「修羅」とよばれる大木のようなものだった。14年かけて補修し当時の姿を修復し、当館に運び込まれたという「修羅」。国指定の重要文化財に指定されたというのもうなづかれる。小型のレプリカもあったが、なんとしてもガラスケースに収められた本式の「修羅」の大きさ、はめ込み式になっている工法、その用途に仰天した。説明を聞いて、古墳時代の先人たちの知恵に驚かされた。「長さ8.8m、重さ約3.2tの木製橇(そり)」だという。これであの大きな石棺、竪穴式の古墳の蓋をした大きな石を運んだのだ。古代人が大海原を行きかった船もよく展示されているが、この「修羅」というものを見たのは初めてだ。藤井寺市三ツ塚古墳出土だそうだ。これだけのものが出土し、完全に復元されたものは世界でもめずらしいのではないか。これで、後世の城郭建築が可能になった秘密が解けたように思った。古代の人たちがこの「修羅」に巨大な石をのせ、そろりそろりと多くの人手を要して移動させる姿が彷彿とさせられた。展示を観終わった最後の場所、地下1階に鹿谷寺(ろくたんじ)石塔(高さ約8m)復元模型がそびえたっていたが、この原型に使われた石も「修羅」によって運ばれた石で造られたものだろう。

館内見学中に親子連れの姿をちらほら見た。子どもたちは館側がつくった「キッヅワークシート」や展示見学キットで座り込み、夢中で粘土をこねて、古代人の追体験をしていた。「早くしなさい」とせかすのでなく、見守る母親の姿が印象的だった。玄関にもどり、ワークシートの何枚かをいただいた。「ちかつこどもワークシート」として《おさかなみーつけた》(風土記の丘の昆虫や動物たちを見つける旅をする)《展示見学キットであそぼう》(ミニジグゾーパズル、ハニワあわせ、土器・石棺パズル、修羅ひきの実験等々)《指令書?5つの「指令」をもとに「予想」をたて「報告」を完成させ、最終報告書を記入する》といったものだった。小学生から中学生まで、ここで1日中自然とふれあい、展示物を眺め、推理し、考え、作り、まとめるといった工程が用意されている。すばらしい。他にも「近つ飛鳥、用語集100」というミニパンフレットも無料でもらえた。

知事となった橋下氏は、「赤字削減」を至上命令として馬車馬のように、それもパーフォーマンスを意識的にやりながら、長年にわたる「歴史・文化」をなで斬りするように廃止・統合を指示してきた。国際児童文学館を府立図書館に統合、和泉にある弥生博物館を近つ飛鳥博物館に統合など、数字のことしか頭にない無謀ともいえる現代の「焚書坑儒」策を実施しようとしている。長い長い時間をかけて蓄積されたものを、知事になったとたんに「歴史破壊」ともいうべき暴挙に出たとしか思えないやりかたはとうてい容認できない。近つ飛鳥博物館に実際足を運び、いっそうその思いを強くした。同じく教育を「点数」でのみ測ろうとする・教育現場無視のやり方も。                


徳之島は別天地だった

9月の初旬、恒例の奄美・徳之島に出かけた。今年は一度も台風が上陸せず、果物が豊かに実り、9月だというのに、マンゴーはわんさとあり、バナナは緑みどりしてたわわに実っていた。紫紅に近い色をしたドラゴンフルーツはあちこちの畑にぶらさがり、パインナップルは赤黄色く色づいていた。 例年とはちがうこの有様にうれしくなった。次々と親戚から運び込まれ、毎日のように口に入った。

空はどこまでも青く広がり、見はるかす水平線は岬(犬の門蓋)と岬(犬田布)をつなぎ、また東シナ海と太平洋の分水嶺をつなぎ、左手に与呂島(奄美大島のすぐ南にある)、右手に沖永良部島を従えている。引き潮になるとサンゴ礁は地肌を見せ、サンダルでそのリーフの先端まで歩いていける。あちこちのワンドには、ちっちゃな天然色の魚から20センチはあろうかという黄色と黒の縞模様の魚が悠然と泳いでいる。白砂の広々とした浜は、ほとんど貸し切り状態で、派遣で島に来ている看護師とその東京の友人が二人で水着のまま日向ぼっこをしていたところへ声をかけ、しばしの間語らい、帰りには学生とおぼしき若者二人と立ち話をした。青年の一人はどうやら話から親戚のようで、いつもお世話になている方の長女が母親らしい。この島では、どこにいっても親戚の人に出会うのだ。

夜には、同じ敷地の別棟に住む親戚の若主人と、この家を建築していただいた親戚の叔父さんに来ていただき、私の姉と弟夫婦を交え、酒盛りをした。酔うほどに叔父さんは戦時中の話、そしてつれあいの親にまつわる話を口にする。おもわぬ初耳の「事実」がぽろりと口から出て、〔そうなんか、そういうこともあったのか〕と、心にメモをすることになる。

翌日の夜は、その叔父さんのおつれあいの方が、昼見えた。お手製の「島豆腐」「島ラッキョ」を持参してくださった。そういえば、2日前は、若主人の母親で親しくしている方が、この島いちばんの「とんこつ(豚骨)料理」を鍋いっぱいに炊いて運んでくださった。

「この島はね、なんでも自分らで作れるものは、作るのよ。自給自足だよね。」

この言葉の背景には、〈ソテツ地獄〉のような厳しい暮らしがあった。台風に見舞われる、飢饉がやってくる、そういう飢餓状態がいつ何時やってくるかわからない、そのことに備えてのことだ。

「ちょっとした空き地があれば、野菜でもなんでも植えたよ。種をまくのはいつ、取り入れはいつ、それは旧暦の農事の決まりに沿ってやるんよ。8年ほど前からまた牛を育てているけどね、これがまた大変。人間なら待てるけど、牛はお腹がいっぱいにならんといつまでも鳴き声を出す。それが近所迷惑でやかましいし、あそこは牛に食べさしてないのかと思われるのもいやだからね。牛に食べさせてからやっと自分らの晩御飯よ。牛の食べ物も、値段があがって、大変。やっと子牛を産む段になる。これは満月の日でないと産まないんよ。無理に引っ張り出そうとすると、親も子牛も傷つけるからね。」

そういえば、サンゴ礁の産卵も満月の夜だった。海ガメが産卵のため浜にやってくる。そして産卵するのも満月の夜ではなかったか。知り合いの家具屋さんは、産卵の場所を知っていて、夜中に出かけるとか。夜光貝も素潜りで採ってくると言われていた。炒めた身はおいしく、大きな貝殻は磨くと緑色の光沢が出て、土産物の店などでは何千円という値がつけられている。以前、家具屋さんから二つほどいただいて置物にしている。

農家は、すべて陰暦の暦で暮らしを立てている。それは実に理にかなっているという。都会に住む私たちは、生産農家がそうした暦に従って農事を進めていることなど知らずに、「安ければいい」「産地など関係ない」という風で買い物をしている。
家の玄関には親戚から届けられた「冬瓜」や「かぼちゃ」などが転がっている。都会なら、さしずめこれだけ大きな冬瓜ならスイカに匹敵する値段がつくことだろう。肉牛・闘牛の育て方の違いなど、叔母さんとの話は尽きなかった。
※つい最近出かけた徳之島のことを書こうとしたのは、日野原重明さんがつくられた「詩」を読んだからだ。96歳の日野原さんは、どんどん新しいことに挑戦されている。今回つくられた「詩」には、曲が付けられたとか。どんな音楽が聴けるか、楽しみだ。以下、その「詩」である。

  人はこの大自然から
  生きるに必要なすべてを
  贈り物として受けてきた
  何億年にもわたって

  それは光 熱 空気 風
  雨や霧 雪からの水
  緑の山と紅葉する樹々
  四季の野と碧(あお)い海
  花と昆虫 その他の生物
  そして山や谷をかけめぐる動物の群

  エデンの園を追われたアダムとイブの子
  カインの末裔(まつえい)としての現代人は
  自然や生けるものの命をなんと数多く奪ってきたことか
  現代人よ そろそろ自然に還ろう
  文明に限界ありとの教えを謙虚に受けて
  平和な自然の生活に少しずつ戻っていこう

  そう 素朴な生活に しかし 思いは高く
  欅(けやき)の梢に揺らぐみどりの若葉のように

 「人はいくつになっても生き方を変えることができる」

 「増やすなら微笑のしわを」

                (日野原重明『生き方上手』ユーリーグ刊)
                


身体の記憶をたどる旅

●海への旅
8月19日から1週間、海への旅をした。それは、主に卒業生を訪ねる旅でもあった。
 まず19日、近鉄アーバンライナーに乗り、伊勢・鳥羽に出かけた。竹下景子さんの顔写真で知られる「まわりゃんせ」の誘いで、安く券が手に入るとのこと。しかし、そんなに多くの施設を周ることはできない。「賢島」というだけで、身体にはおよそ30年以上前の記憶がよみがえる。勤務校の同僚の数家族で出かけた旅であった。夕食の御膳に大きな舟盛りが出てきたことを覚えている。連れ立ったメンバーの誰もが若かった。小さな子どもたちは波打ち際で興じたに違いないが、あまり覚えていない。
真珠養殖 旅館の出迎えまで1時間以上あったので、英虞湾のクルージングに乗った。英虞湾は幾重にも入り込み、波も穏やかだった。真珠の養殖があちこちでやられていた。有人島、無人島あわせ、たくさんの島が望見された。ある島は小学校しかなく、中学校に通うのに船に乗って通うという解説があった。天気もよく、缶ビールを飲みながらの快適な船旅だった。迎えのバスに揺られ、旅館に着いて、部屋に通された。部屋は外海に面しており、窓の左側から朝日が見え、右側に夕日が落ちていくと、仲居さんが教えてくれた。ときあたかも和歌山の方に夕日が落ちる頃だった。右手は熊野灘だった。目を海岸線に移すと、波打ち際は黒ずんだ土で、とても海水浴にはむかない状態だった。多くの海岸線がこのように白砂が失われた状態になっているのだろうか。ここでも奄美のサンゴ礁の海の群青色と広々とした白砂の浜を思い出していた。この地でとれる魚を主体にした和食はほどよい量で、堪能できた。私としてはめずらしく、温泉に夕方・晩方・翌朝と3回も入った。美人湯と薬湯の源泉の異なる二つの温泉だった。海の幸を加工したお土産を試食した上で買った。

●淡路島へ
20日に大阪に戻り、翌21日午前、淡路島行きのバスに乗った。5月に続き、卒業生に車で迎えに来てもらう旅だった。5月の折りは連休のため2時間の予定が4時間以上かかって、卒業生に大変迷惑をかけたが、今回は定刻どおりに洲本港に着いた。洲本城に上った。茶店が1軒開いていた。奄美の徳之島の観光名所にあった茶店は、次々と店を閉じていく。さびしい限りだが、ここは2軒のうち、1軒が開いていた。天守閣のレプリカに上り、眼下の洲本市内が見渡せた。最上階の窓から吹く風が涼しく、おもわず「いい風やねー」と口に出た。若者二人が後から上ってきて、先に降りて行った。天守閣を下り、洲本の海岸線をみると、お盆を過ぎているが、家族連れが海水浴を楽しんでいる光景が目に入った。「今でも泳いでるんやね?。」と卒業生と言い合った。
城の階段を下りたところに、先に声を掛けられていた茶店があり、そのまま帰るのは気が引けたので寄った。ニコニコ顔でおばさんが迎えてくれた。徳之島では、茶店の番は主に男性がやっていた。が、ここはおばさんだった。かき氷を頼んだ。腸にしみた。喉がすっきりした。淡路島から四国への「鳴門海峡大橋」が開通してから、客足がぱたっと減りました、そうおばさんは苦笑交じりに話した。
 下へ降り、文化資料館に入った。念入りに見て歩いた。この島には長い歴史が刻み込まれている。それは、時に時代の支配者に組み込まれた「歴史」であるが、それだけでなく、まさに庶民の日常の暮らしが刻み込まれたものだった。ボロボロに朽ちた丸木舟が展示されていたが、大昔島の人たちはこの丸木舟で各地に出かけたのだろう。海賊も出没しただろう。島であるということは、外の世界に通じることである。早くから「交易」を暮らしの中心においてきたに違いない。懐かしい民具もおかれていた。すべて見てまわってかなり疲れた。
すぐ側に「足湯」があるというので、入りに行った。先客が二人いた。うち一人は、91歳になる老爺であった。1日に4回入りに来る、膝も悪かったが、この足湯のお陰で今も歩ける、ボケも治った。このように繰り返し独り言を聞かせた。われわれの後に、若者のカップルが2組浸かりにきた。15分も浸けていると、疲れがすっきりとれた。狸もこの温泉に浸かったのだろう、愛嬌ある顔をした狸の像が置かれていた。
 夕食にはまだ早いということで、以前にも入った本格的なコーヒーを飲ませる喫茶店に入った。1杯のコーヒーを大事に飲みながら、学校教育や地域と相互補完の関係にある「学童保育」「不登校生徒が通う適応教室」などについて語り合った。また、今の学校を取り巻く環境の厳しさ、その主要な原因を作りだしている文科省の施策のブレについても触れた。彼女のこれからの進路も心配で、採用試験の状況も話した。

●祖谷渓への旅
翌日は朝早くから迎えに来てもらい、彼女の運転する車で出発した。徳島の「祖谷渓」をめざして一路西に向かって走った。最近NHKの番組で東ちづるさんが祖谷渓を訪れた時の様子が報道されていた。それを観て、何としても一度行ってみたいと、卒業生に頼んだ。何度かのメール交換ののち、祖谷渓行きが決まった。「かずら橋」めざし、一路高速で徳島に入った。阿波池田から一般道に。小歩危から大歩危を経て、なお延々と車を走らせた。3時間を要してやっとのことで、祖谷渓谷に着いた。吉野川のゆったりした流れは壮観だった。「かずら橋」を渡るのに500円払って、できるだけ眼下の流れを見ないようにしながら、こわごわ一歩一歩進んでいった。渡り終えて河原に降りた。河原では若者の集団が一人ひとりを川に投げ入れ、男は全員ずぶぬれになり、「儀式」を終えた彼らは去っていった。
 中学から高校にかけて、毎年のようにワルガキ連中とキャンプに出かけたことを彼女に話した。下相談に時間をかけ、付き添ってくれる先生の家に集まりワイワイ言いながらプランを練った。川べりにテントを張り、山に入ったり、河原のあちこちから枯れ木を集め、河原の石を積んでかまどを作り、新聞紙と薪をくべて煮炊きした。私はいつも料理係だった。ガンジーというあだ名だった。痩せてあばら骨がくっきり見えたところから付けられたのだった。このグループを「十神塾」と名づけ、「掟」を作って得意になっていた。
 水はゆったりと流れていた。引き込まれるように、しばらく川の流れに身をゆだねていた。周りに人はいなくなり、それでもしばらくは岩場に腰を据えていた。十代の「思い出」としてではなく、身体に記憶された《体験》として、その体験は私のこれまでの社会生活のさまざまな場面での判断の材料となり、行動基準を規定しているはずだ。
案山子の里 たっぷり休養した二人は、また車で「東祖谷」に向い、テレビでも紹介されていた〈案山子の里〉を訪ねた。案山子の作り手の方は仕事でおられなかったが、姑の方が留守番をしておられた。親切に家にまであげてもらった。太い梁を渡した本格的な日本の家屋だった。天井から大きな提灯が二つぶらさがり、自在鉤が吊るされた囲炉裏があった。少し耳が遠いとのことで、大きな声で話した。近くの道路、バス停留所、畑には手作りの案山子がたくさん据えられていた。バス停の前の道路際に坐している案山子は、後ろ向きで帽子を被っており、もう少しで声をかけそうになった。停留所には、2体の案山子があり、1体はギターを弾いていた。静かな時間が流れていた。悠久につづくであろう村の営みを想像した。近くの山には狸や鹿など多くの動物たちが生息しているだろう。その動物たちと村人たちとの「交感」の物語も多く語られてきたに違いない。
 帰路は剣山を越える山道を走った。目に入る限り杉山で、現に杉材を満載したトラックに出合った。これでは、クマをはじめ動物たちの食料がなくなり、棲めないはずだ。「日本熊森協会」の人たちによる植林(クリその他動物たちの食べ物がなる木)のことを思った。剣山のヘアピンカーブを長い時間走り続け、ようやく美馬の街に出、一路淡路島に急いだ。

●歴史を感じとること
私が信頼する哲学者・内山節は、その著『「里」という思想』(2005年9月、新潮選書)で、次のように書いている。
--少し前までの社会では、人々は自然に歴史の時間軸を感じとることができた。子供たちはおじいさんの植えた木をみながら育ち、多くの人たちが、祖先が基礎をつくった家業を継いだ。語り継がれていく言葉、作法、習慣、行事、祭り、受け継がれた技。そういったすべてのものが、人は歴史という時間軸とともに生きていることを、自然に感じとらせた。つまり、人間は、自分が生きている小さな世界=ローカルな世界で歴史を感じとっていたからこそ、それと照らし合わせながら、日本の歴史や世界の歴史といった大きな歴史をも、読みとることができたのである。
--ところが現在では、自然に歴史を感じとることのできるローカルな世界が、弱体化している。私たちは次第に、歴史を感じとることのできない、都市の漂流民化していった。しかもその私たちが身を置いているのは、情報化された市場経済の社会である。
--情報化社会は、氾濫している情報のなかから選択することだけを、人に要求する。その情報が生まれ、消えていく歴史は問われない。今日の市場経済もまた、現在の利益や効率だけを私たちに迫る。(中略)社会のこのような現実は、歴史とともに生きているという感覚を衰弱させる。そして、そのことの重大性を私たちに教えたのが、2001年のニューヨークのテロ以降の雰囲気だった。(略)いわば社会は、歴史のない世界のなかでテロと向き合い、アメリカによる新たな戦争に同意したのである。
--現代人は、歴史の喪失という人類の危機に立たされているのかもしれない。(略)今日の課題のひとつは、どうしたら人間は歴史をとり戻すことができるか、である。

●「過去の記憶」が判断のよりどころ
では、なぜ「歴史をとり戻す」ことが今日の大きな課題であるのか。本来私たちは「歴史の記憶」とともに生きている。それは20世紀の歴史が「文明と進歩による繁栄の歴史」であるといったことに惑わされるのでなく(惑わされた結果がどれほどひどい戦争と貧困、虐待と飢えを招き、それに有効な手を打てていないかを見よ!)、人が何によって生き続けてきたかをとらえ返すことである。内山は、別の章で次のように言っている。
--その歴史の記憶には、世界史や日本史といった記憶だけではなく、地域の歴史の記憶やわが家の記憶、自分の半生の記憶もある。そのようなさまざまな記憶を多層的にもちながら、その記憶に照らして価値判断をし、自分の歩む道を決める。(中略)ところで、その記憶とは、知識として存在するものなのだろうか。(略)(たとえば古代の仏像に接することによって)知識がふえるだけでなく、観るという行為によって得られる記憶が残る。いわば、そのことによって、「眼の記憶」とでもいうべきものが残され、その「眼の記憶」が、それ以降の私たちの判断に影響を与えるようになる。(もちろん「手の記憶」「身体の記憶」と呼べるような記憶もある、そうした)過去の記憶もまた、知識だけでは手に入れることのできない総合的な記憶として、残されていく。(中略)身体の記憶に包まれることがなくなった知識だけの記憶は、それ自体として弱さをもっているのである。(言い換えれば)現在では、歴史が蓄積してきたものを受け継ぎながら創造的に生きる力が弱ってきている。
淡路島から徳島の祖谷渓、そして奥祖谷に車を走らせて観たもの、聴いたものは、触れたものは確実に私の《身体の記憶》となっている。また記憶とするために、私は時を見てそのことを語り続けるだろう。げんに今このように文章に書いている。

●青春18切符の世界に浸る
 この徳島行きから帰った翌日、私は「青春18切符」を使ってローカル線の旅に出た。まず岡山に行き、『もっと生きていたかった -子どもたちの伝言-』という朗読劇を観た。その会場には、東京からこの朗読劇の構成詩の作者・石川逸子さんが見えていた。始まる前にあいさつをした。1時間半にわたる朗読劇は、この世に生を受けながら子どもの時にいのちを断たれてしまった人に成り代わって、石川さんがその無念の「事実」を詩の形式で表したものであった。この石川さんは「ヒロシマ・ナガサキを考える」という個人誌を発行されており、現在90号を超えている。分厚なリーフレットを毎回お送りくださっているお礼の手紙を出したのに対し、「岡山で会いませんか」とおっしゃっていただいたことで、岡山に出かけたのであった。公演が終わり、会場を出たところで石川さんと立ち話をして別れた。
岡山駅に取って返し、すぐ広島行きの在来線に乗った。新幹線なら1時間で着く行程をあえて在来線にしたのには、訳がある。倉敷、福山、尾道、三原という地には、私のたくさんの「記憶」が詰まっている。それは連れ立った人との記憶もあれば、その地の歴史・風土との出会いが強い印象を残しているという記憶もある。出会った風景や人たちそれぞれにまつわる出来事や交流、そこに忘れられぬ体験が刻まれており、それらを通して私の貴重な経験となっているのだ。そうした「記憶」を一つひとつ取り出し、振り返るには、新幹線はダメで、やはり各駅停車にかぎるのだ。

 広島駅では、卒業生が娘さんと一緒に迎えに来てくれていた。夜に入っていたが、車で市内を案内してくれた。原爆投下のとき人々が熱線に焼かれ、飛び込んだ太田川なども渡った。原爆ドームが薄暗がりの中に浮かび上がっていた。それらを目に焼き付け、車は東にとり、高台にある卒業生の家に着いた。夕食が用意されていた。83歳になるお母様が大阪から来ておられた。娘さんの旦那さんはまだ仕事から戻っていなかった。刺身以外に、おなすを焼いて、その上に大根おろしをのせ、おかかをまぶして醤油をかけた一品が食卓に出ていた。「せんせ、これおいしいですよ。なすびはフライパンで焦げ目がつく程度に焼き、熱いうちに食べるともっとおいしいんよ。」と、57歳になる卒業生が説明した。冷めてはいたが、とてもおいしかった。心臓の手術をされたというお母様はお元気そうに見えた。
 食事を終えて、車を走らせ、近くの大きなお風呂屋に出かけた。翌日は、旅の疲れからか、寝坊をしてしまった。が、若い旦那さんの運転で、6人を乗せたワゴン車は呉に向かった。宮島とは反対方向だが、私が竹原に行くので、呉によってからその方面に送ってくれるという算段だった。呉の街に入り、「ここの小豆の入った上げ饅頭は並んででも買うほどで、おいしんよ。」と卒業生が言った。娘さんが早速買いに行き、みなで一つずつ熱いのをほおばった。まもなく、近年設けられた「大和ミュージアム」に着いた。平日なのに、子供連れの家族がたくさん来ていた。やはり夏休みだからか。ミュージアムの前に海上自衛隊の資料館があった。無料で見学できるという。要は宣伝が目的なのだ。それには入らず、向いのミュージアムに入った。日本が戦争中総力をあげて建造し、沖縄に向かう途中、奄美の徳之島の沖合で沈没した「戦艦大和」を、今の人たちにどのように伝えようとしているかに、私の関心があった。

●なんのための展示か
今も造船業その他大きな企業が軒を連ねているが、呉の街自体はさびれていたらしい。が、このミュージアムができて、賑わいが戻ったという。館内は見学にやってきた人たちで混んでいた。がしかし、展示を見ていくうちに、このミュージアムそのものを構想し、常設館を貫いている「ねらい」に、大いなる疑問がわいてきた。その主要なトーンというのは、次のようなものだった。すなわち、原爆投下の一つの原因をなしている(と私には思われる)戦中の軍需産業、とりわけ江田島の「毒ガス」製造、呉の造船業とりわけ「戦艦大和」の建造自体をどう振り返り、位置づけしているか、その視点で見ると、そうした戦時中の日本の、そして広島が背負っていた戦争遂行上の任務、そのことへの「反省」などは微塵も感じられなかった。「戦艦大和を建造する上に発揮されたその優秀な技術が、戦後の経済復興を下から支えた。」というのが主要なトーンだった。吉田満の優れた記録文学である『戦艦大和の最期』などは、なんの脈絡もなく都合のいいところだけをつまみ食いする形で引用されていた。アメリカによる原爆投下と広島の軍事産業の関連については、まったく触れられていなかった。これだけの集客をし、もしかすると中学校の社会見学などでも訪れるかもしれないこの施設が発信しているメッセージとはどういうものだろうか。そういう問題意識で見ていくと、日本が始めた戦争によって2000万人といわれるアジアの人々の命を奪い、日本人300万人を死に至らしめた「事実」と無縁なところで設置されたミュージアムであることが分かってくる。そのことにどれくらいの人たちが気付いているだろうか。そのことが気になり、中学校の講師をしている娘さんに問いかけたりした。今の小学校・中学校の教科書が戦争をどのように記述しているか、早急に調べてみないといけない。
 徳之島の犬田布(インタブ)岬の、太平洋に面した広い野原には、今も戦艦大和の慰霊塔が立っている。大和に使われていたと同じ大きさの錨が両脇に置かれている。数年前まで、この地で毎年「慰霊祭」が執り行なわれてきたが、遺族やわずかの生存者の高齢化のため、今は行われなくなっている。『戦艦大和の最期』の作者・吉田満もきっとここに足を運び、死んでいった多くの「戦友」の冥福を祈り続けたであろう。広大な奄美の海の見はるかす水平線を見ながら、この岬のはるかな沖合で、アメリカの絨毯爆撃にあい、あえなく沈没していった戦艦大和。その一部始終が吉田満の、漢字カナ交じり文の《乾いた文体》で刻まれている。徳之島の特攻基地(多くの人が、日本の最南端の特攻基地は鹿児島の知覧だと誤解しているが)、ここから沖縄に向かって飛び立っていった特攻隊員の非業の死と合わせ、戦時においてどれだけの命が、まちがった戦争遂行の判断によって奪われていったか、その「事実」の前に、もっと私たちは立ち止まらなくてはならない。

●歴史観の再検討を
私は、「まちがった戦争遂行の判断」と言った。この戦争(日中戦争から太平洋戦争にいたる15年戦争)を、今だから「まちがった戦争」と言える。が、1945年 8月15日を「終戦」と呼び、それが常識となってきている今日、やはり「敗戦」と言わなくては、軍指導者だけでなく私たち庶民の戦争責任・戦後責任がぼやけてしまう。そのことも含め、「なぜあの戦争を食い止められなかったのか」という問いは、いつも私たちの中にもっていなければならない。では、それはどのようにして可能なのか。
自分の中には、戦中・戦後の「体験」が刻み込まれている。それは自らの体験だけでなく、多くの人たちの体験が重ねられている。被害の体験だけでなく加害の体験もようやく語られ始めている。その記憶の積み重ねが一つの価値判断として働くように機能しているだろうか、ということである。記憶された体験は、今やグローバリズムの滔々たる流れの中でローラーをかけられ、大きな力となりえているとは言えないような状況だ。それに疑問を投げかけるのは、少数の人のように思える。「文明と進歩の歴史」観からすれば、グローバリズムは結構なことであるにちがいない。しかし、そのグローバリズムが地球を破滅的な方向に導いていることは、もはや明らかではないだろうか。その危機的現象はあちこちで見られるはずだ。グローバリズムを良しとするのは、戦後われわれが手に入れた「豊かさ」の延長上に物事を見ようとする態度だ。手に入れた「豊かさ」が、今日どれだけの「歪み」と「困難」を私たちの暮らしの中にもたらしているか。その「豊かさ」が、開発途上国の民の「貧しさ」にどれだけ負っているか。アンフェアーなトレイドによって達成された「豊かさ」の構造を、フェアーなトレイドにすることで、「困難」をわかちあい、極端な貧困と幼い命の飢餓と死にストップをかけていけるか。がしかし、達成された「豊かさ」を手放したくないと、今の生活に固執している私たち。この固執は、頽廃にすぐ結びつく。先に引用した内山のことばを、再度ここで繰り返したい。
--人間は、自分が生きている小さな世界=ローカルな世界で歴史を感じとっていたからこそ、それと照らし合わせながら、日本の歴史や世界の歴史といった大きな歴史をも、読みとることができたのである。
 大ざっぱな日本史に組み込まれなかった「自分が生きている小さな世界=ローカルな世界で歴史を感じとってい」く道筋は、「身体に記憶」された個人や共同体の「記憶」を基にして価値判断していくところにある。そのローカル性は、アンフェアなトレードのもとに貧困を余儀なくさせられている、途上国の働き手のローカル性につながっているはずだ。もはや我々が手に入れた「豊かさ」の意識的な「放棄」を決意しないといけないのだ。子どもに対しても「与えない」ことを通じて育てることが必要なのだ。ほんの40年前後の日本の状態に目を凝らすことで、そうした道筋は見えくるだろう。

●大崎上島再訪
竹原まで車で送ってもらい、大崎上島ゆきのフェリーの港に着いた。午後3時の便にギリギリ間に合った。挨拶とお礼をもそこそこに船の上の人となった。
弓張岩 広島県側の島々に目を向けるうち、たちまち30分たち、垂水港に横付けされた。港には卒業生の父上が迎えに来てくださっていた。「まだ島を一周していませんでしたね。」と、父上は周辺40kmという島を案内された。つい2年ほど前まで勤めておられたセメント会社の横を通った。「いつまでもやってるとね。若い者に譲りました。」そうこうしていると、車が止まった。海に突き出した「弓張岩」という看板が立っていた。その説明によると、1400年ころ、このあたりの土地に海賊が出没して、民家や船を荒らしたらしい。そこで城主で弓の名人である小早川冬平が撃退したとある。
次に車が止まったのは、愛媛県側の島々を一望できる温泉があるという場所だった。露天風呂に入りながら説明図に従って島々を確認していった。右手に今治、さらに右手に松山がかすかに見える、そういった位置だった。周辺40kmを巡り終え、家に着いた。以前一度泊めていただいた、少し見覚えのある家だった。テーブルにはすでに「鯛の活け造り」が乗っていて、私たちの帰りを待っていた。母上が気を遣ってくださったのだ。「ビールも、断崖絶壁から飛び降りる気持でこれを買いました。」と、金賞を連続で受賞した例のビールを出してこられた。ユーモアを利かせた母上の言動が私の気持ちを和ませてくれた。
 私の卒業生は、この家の一人娘だ。大学を卒業後、岐阜県の方の会社に就職し、昨年大学時代から付き合っていた彼とゴールインしたと、年賀状で母上が伝えてこられた。その娘夫婦がこの夏、盆には郷里である大崎上島に里帰りしたと、父上は嬉しそうに話された。一人っ子を手放す親の気持ちは、私にはわからない。が、年に2回帰ってくる娘をご両親は首を長くして待っておられるのだろう。退職して家におられる父上は、なおさらその気持ちが強いのではないだろうか。この町には、8月17日を期して島から出て行った人たちが「祭り」のため戻ってくると聞いた。私の卒業生もきっとその「祭り」には間に合うように帰ってくるに違いない。
呉線から望む 瀬戸内海 この島には造船業があり、あと温暖な気候から「柑橘類」の栽培がなされている。みかんやぶどうなどがよくできるとか。ブルーベリーもできるらしく、冷たく冷やしたのを土産にと持たせて下さった。島の周辺は40kmとお聞きしたが、私が毎年出かける徳之島はその倍で、80kmあまりある。その位置の違いからして、刻んできた歴史には相当の開きがあるだろう。一度ご両親を徳之島にご招待したいなと気持ちが強く動いた。お母様はまだ「しいたけ栽培」の会社にお勤めらしく、そのお勤めが終わった頃に来ていただけたらと。
 この島には小学校と中学校がある。高校がないため、生徒たちは、私が乗ったフェリーで毎日高校に通う。私の卒業生もそのようにして、自転車とともに毎朝フェリーに乗り込んで通学したという。小京都と呼ばれる竹原の景観保存地区を卒業生と一緒に歩いた時の印象が強く、頼山陽の出生地でもあるということで、私の関心を強くひいた。いずれかの機会に、また卒業生と竹原の街を歩きたいものだとの願っている。帰りは、私の気に入っている「呉線」に乗り、播州赤穂を経て一路大阪に戻った。


(「教師駆け込み寺・大阪」趣意書より抜粋)

机に座る下橋先生――今、教師をとりまく環境は、とても厳しくなっています。そして、年々忙しくなっています。教師は、その職場の中でさまざまなストレスを抱え込むことになりがちです。生徒の指導をめぐって、また「授業」を中心とした教科指導のありかたをめぐって議論できる職場ばかりではありません。

 児童生徒の言動が理解できない、どう指導したらいいかわからない、かかわろうとしても親や他の教師たちの協力が得られない、児童生徒自身からも無視されたり、指導に従わない子どもたちも出てきたりすることがあります。

 わが子に対する教師の指導が意にそまないと、保護者が管理職や教育委員会へ連絡し、時には「担任を替えてほしい」と言い、指導方針を説明しても理解してもらえないこともあります。地域や世間の目を気にしなければいけない場合もあります。

教壇の先生 こうした複雑な人間関係を処理しながら仕事を遂行していかなければならないのは、おそらく教師という職業以外には見られないことでしょう。教師は、このことから生じるストレスを一人で抱え込んでしまう場合が多いのではないでしょうか。そして、その膨大な仕事量によって疲れきってしまい、自分を責めてしまいかねないのです。

 文部科学省や教育委員会のやつぎばやの指示、また「方針」の動揺によって、学校現場は、授業時間確保や学力保障、評価・指導法に至るまで、あらたな仕事を負わされ、いっそうの努力を要求されています。

 困難な中にあって、なおそうした仕事に精を出し、同僚と共に工夫を凝らし、努力を重ねている職場や個人の先生方を、私たちは知っています。子どもの笑顔に出会えて元気をもらい、その喜びによってさまざまな苦しみをも乗り越えていかれる教師たちを知っています。

 学校に閉じこもるのでなく、そうした多くの学校や教師の実態を知ることで、また明日から励む力を湧き立たせることができるのだと考えます。さらに、異業種の人たちとも出会っていくことで、自分の世界を広げ、活力をもらうことも必要ではないでしょうか。(多少表現を変えたり、付け加えたところもあります)

 これまでの例会で、休職を経験しまた職場に復帰された方のお話を聞き、参加者もそれぞれ自分の状況やおもいを語り合う「交流」も行いました。これからも、退職教員に来ていただいたり、先生方との自由な懇談を通してわが子の子育てをしてこられたお母さん方にも参加を願い、それぞれの体験をお話していただく「例会」を開いていきたいと考えています。

 例会の日取りは、「教師駆け込み寺・大阪」のHPでご覧下さい。下橋のこのHPを見られた方とも、例会などでお会いできることを願っています。また、「お話」の出前にも呼んでください。よろしくお願いします